2014年11月11日火曜日

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反乱・考
                               井上澄夫
 
 本年1月19日投開票の名護市長選で稲嶺進前町長が再選された事態を、以前筆者は〈名護の反乱〉と表現した。一票の権利を行使した名護市民はなにか物理的な実力行使を行なったのではない。しかし彼女ら・彼らはまちがいなく日本政府に対し反乱を起こしたのである。それは圧倒的な組織力と金力との闘いだったが、名護市民は一人ひとりの人間としての尊厳を賭け、静かに自己決定権、自決権を行使した。
 
 反乱(叛乱)というと、武器をもって蜂起し権力に立ち向かうというイメージが強いが、反乱とは「体制側の意向・命令に逆らって、独自の行動をとること」である(新明解国語辞典、三省堂)。あの名護市長選で政権与党・自民党は「体制側の意向」を貫こうとし、それはカネの力で可能であると考えた。だから石破茂自民党幹事長(当時)は「500億円の名護振興基金」というニンジンを名護市民の鼻先にぶらさげた。しかし名護市民はそんなものには目もくれず「体制側の意向」に逆らって名護市への新基地建設押しつけを拒否した。だからあれは〈名護の叛乱〉であり、その反乱は稲嶺市長を先頭に今も続いている。
 
 昨年の11月6日、宮古島で歴史を画する非暴力の抵抗が起きた。防衛省・自衛隊が陸海空統合演習のために、地対艦ミサイルを平良港下崎埠頭に陸揚げし、島の航空自衛隊基地に運び込もうとした。それを4人の市民が非暴力の座り込みによって2時間半阻止したのである。座り込んだのは清水早子さん、佛原行夫さんを含む4人の住民である。
 彼らは労働組合の人びととともに「ミサイル搬入反対」を叫んだあと、ミサイルを積んだトラックの前に並んで座った。労組員はともに座ろうと呼びかけられたが誰ひとり座らなかった。
 前代未聞の事態に宮古島市警は対処の仕方がわからず、ついに宮古島では初めて制服警官が出動し、4人の両手両足をつかんで排除したのだが、それまでに4人は実に2時間半もトラックを止めたのである。筆者自身、座り込み(シットイン)の体験は何度もあるが、4人だけでそれほどの時間座り込みを続けることがどれほど大変な精神力を要するかはよくわかる。筆者はこの抵抗を〈宮古の反乱〉と呼んでいるが、この抵抗は沖縄と日本の反戦運動史に深く刻まれるべき快挙であると思う。
 
 もう一つ、余り知られていない見事な抵抗を記したい。名護市西海岸の名護湾に面する世冨慶(よふけ)に東江(あがりえ)という海岸がある。それは小さな入り江だが、そこはサンゴ礁が発達しクマノミなど諸種の魚類が集まる豊かな生態系の小宇宙だった。ところが自然海岸をコンクリートの人工海浜に変えるという愚昧極まる「開発」計画を進めてきた沖縄県が、その貴重な自然海岸を埋め立てようとした。
 それを阻止するために地元住民が2010年の暮れから座り込みや要請行動を繰り返し、2011年の2月に「名護の自然を守り、次世代に伝えたい市民の会」を結成した。同会に結集したのは地元の5人とヤマト出身の定住者5人である。彼女ら・彼らは来る日も来る日もブルドーザーなど重機の前に座って抵抗した。頭の上を重機のクレーンが動き回るのだから危険なことこの上ないが、彼女ら・彼らは抵抗の場から動こうとしなかった。
 これは辺野古の新基地建設阻止運動に連なる重要で見事な直接行動だが、メディアではほとんど紹介されなかった。だが〈東江の反乱〉に参加した鈴木雅子さんや浦島悦子さんたちが今もジュゴンの生息環境調査を続けていることをここに記しておきたい。
 
 反乱は投票行為によっても、非暴力直接行動によってもできる。辺野古の海ではカヌー隊(筆者は「平和船団」と呼んでいる)が海底ボーリング調査を阻止しようと果敢に抗議行動を続けている。キャンプ・シュワブのゲート前は絶えることなく県内外から人びとが集まって声をあげデモをしているが、そのそばで高齢者が静かに座り込みを行なっている。
 
 〈基地はいらんよ、絶対に許さんよ〉
 
 ※ 〈宮古の反乱〉をになった佛原行夫さんは今春亡くなりました。深い哀悼の意を表します。
                   いのうえすみお 北限のジュゴンを見守る会

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