ブログ開設にあたって


【ブログ開設にあたって】 活動の趣旨

 沖縄(本)島の名護市以北、山や森の多い自然豊かな一帯をヤンバル(山原)といいます。このヤンバルの東海岸に自然景観に恵まれた辺野古(へのこ)の海が広がっています。美しい辺野古の海は、沖縄県の環境保全指針で「自然環境の厳正な保護を図る区域」であるランク1とされていますが、それは沖縄島ではごくわずかになった自然海岸がみごとに残っているからです。

 ところがこの美(ちゅら、うつくしい)海、稀少な天然記念物・ジュゴンが餌(えさ)場とする豊かな海が今、埋め立ての危機に直面しています。日米両政府が辺野古沖海域とそれに隣接する大浦湾に巨大な米軍基地を建設しようとしているからです。新基地は軍港施設を合わせ持つ、オスプレイや戦闘機用の飛行場です。
 
 2013年末、仲井真(なかいま)沖縄県知事は県民の大多数の反対の声を押し切って、防衛省が申請した辺野古埋め立てを承認しました。しかし14年1月19日におこなわれた名護市長選で名護市民は「辺野古の海にも陸にも基地を造らせない」ことを公約として掲げた稲嶺進(いなみね・すすむ)前市長を再度当選させ、「辺野古新基地建設 NO!」の意思を鮮明に示しました。

 主権在民原理に立つ民主主義の国であれば、政府はこの名護市民の意思を尊重し基地建設計画を取りやめるはずです。ところが、安倍政権は市長選のわずか2日後、埋め立てを進める手続きを開始したのです。埋め立てをおこなうには諸工事が自然環境に及ぼす影響を調査しなければなりませんが、防衛省はその調査を請け負う民間企業を募集する入札の公告を強行しました。この政府の姿勢は名護市民をはじめとする沖縄県民の「新基地建設 NO!」の意思を正面から踏みにじるものであり、県民から激しい怒りが湧き起こっています。

 ところで防衛省が求める「調査」の結果が同省にとって都合のいいものになることは言うまでもありません。そこで私たちは調査を請け負う民間企業に防衛省に協力しないよう働きかけようと思います。このブログは防衛省の動きを監視し、調査を請け負う企業の特定に努めます。そして調査を請け負う企業が判明したら、それらの企業が防衛省による美しい辺野古の海の埋め立てに協力しないよう要請する活動を全国のみなさんに呼びかけようと思います。

 辺野古新基地建設を阻止する方法はいろいろ考えられると思いますが、私たちのこの活動はそれらの動きの一環として大事な役割を果たすと思います。
 このブログは事実を正確に伝えます。みなさんが情報を活用してくださることを心から期待します。        本ブログ編集部 2014年2月20日     

2014年8月22日金曜日

社説・News:【更新】8月22日、疎開船対馬丸撃沈から70年


【対馬丸撃沈から70年 8・22付2県紙・社説とコラム】

 
◆◆社説[対馬丸撃沈70]悲劇の実相語り継ごう 8・22 沖縄タイムス

 ・社説の後半を紹介


 対馬丸が長崎向けに那覇港を出発したのは、1944年8月21日。7月7日にはサイパンが陥落した。米軍の沖縄上陸は必至だと判断した日本軍の要請を受け、政府は女性や子ども、年寄りを島外へ疎開させるよう命じた。

 その狙いは、軍の食糧を確保し戦闘の足手まといになる住民を戦場から排除することだった。社会的弱者を安全な場所へ避難させる考え方ではなく、軍の論理が優先されたのである。

 出航時、南西諸島周辺や南洋群島の海域は、日本軍の物資や兵隊の輸送を断つため米軍の攻撃が相次いでいた。既に危険な海であり、軍もそれを把握していた。

 対馬丸撃沈に厳重な箝口(かんこう)令が敷かれたことも、関係者の苦しみに拍車をかけた。生存者は体験を語れず、わが子を失った親も悲しい胸の内を明かすことは許されない。漏れ伝わってきた撃沈のうわさを確認しようと周囲に聞き回った母親が、憲兵に捕らえられた、という証言もある。

 那覇市若狭に2004年開館した対馬丸記念館は、学童たちの足跡をたどりながら平和を学ぶ場となっている。ことし5月には、対馬丸遭難者を救助した漁船の乗組員が書き残した手記が、遺族から記念館へ寄贈された。貴重な記録だ。

 対馬丸撃沈は、その後の10・10空襲、凄惨(せいさん)な地上戦へと続く沖縄戦の序章である。

 軍の論理がまかり通り、住民の安全よりも軍事機密保持が優先された時代に何が起きたのか。私たちは実相を知り、過去に学ぶべきである。

 

◆◆<社説>対馬丸撃沈70年 全遭難船舶犠牲の補償を 8・22 琉球新報

 ・社説の前半を紹介

 集団疎開のため沖縄から九州へ向かう学童を乗せた「対馬丸」が、米潜水艦によって撃沈され70年を迎える。犠牲者は学童780人を含む1485人に上る。船体と共に海底にのみ込まれた子どもたち、寒さと恐怖に震え、漆黒の海を漂流した子どもたちを思うと胸が痛む。沖縄戦を学び、語り継ぐ上で対馬丸撃沈を忘れてはならない。

 子どもや女性ら多くの民間人が犠牲となった対馬丸撃沈は沖縄戦の本質を象徴する出来事だ。「集団自決」(強制集団死)やスパイ視虐殺と同様、一般住民に犠牲を強いた国家の責任が強く問われているからだ。

  対馬丸を含む沖縄の県外疎開は、県民保護よりも軍事上の戦略が優先された。沖縄が戦場になった場合、子どもや女性、老人は戦闘の足手まといになり、食料確保にも支障を来すという認識が軍部にあった。「絶対国防圏」の要衝とされたサイパン島の日本軍が壊滅した1944年7月7日、政府は南西諸島の住民を九州や台湾に疎開させることを決め、実行に移した。

  ところが沖縄周辺海域は米軍が制海権を握っており、船による疎開は無謀だった。対馬丸は軍団輸送に使用された徴用船であり、狙われる危険性があった。対馬丸撃沈は国家の戦争遂行に従わざるを得なかったゆえの悲劇である。政府が「対馬丸遭難学童遺族特別支出金」を支給しているのも、国策の犠牲という点を考慮したものだ。

 


<金口木舌>武力伴う船が招くもの 8・22 琉球新報・コラム


 
 


〔参考記事〕

 
【電子号外】学童の悲劇忘れない 対馬丸70年慰霊祭 8・22 沖縄タイムス

 ・記事の一部を紹介

 

 アジア・太平洋戦争中、那覇から長崎へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈されてから70年になる22日午前、那覇市の慰霊搭「小桜の塔」で慰霊祭が開かれた。強い日差しの下、約500人が出席。名前が分かったただけで学童780人、全体で1485人に上る犠牲者の冥福を祈った。

 

 

対馬丸の犠牲者慰める 「小桜の塔」遺族ら450人参列 8・22 琉球新報

 

 

対馬丸:撃沈から70年 那覇で慰霊祭 平和誓う 8・22 毎日

写真 「小桜の塔」前で開かれた対馬丸慰霊祭=沖縄県那覇市で2014年8月22日午前11時10分、和田大典撮影

 

 

対馬丸撃沈 きょう70年 8・22 沖縄タイムス

 

 

【特集】対馬丸から70年 生存者が触れた手記 8・21 RBC ・必見の動画です

 

 

対馬丸撃沈から70年、450人が追悼 那覇で慰霊祭 8・22 朝日

写真 慰霊祭を前に「小桜の塔」に手を合わせる遺族=22日午前8時54分、那覇市、福岡亜純撮影

 

 

対馬丸帰らぬ姉 舞踊家・玉城節子さん 8・22 沖縄タイムス

写真 対馬丸事件で、姉を失った玉城節子さん=15日、那覇市若狭(古謝克公撮影)

写真 太平洋戦争当時、南洋群島で亡くなった県出身者らの冥福を祈り、踊りを披露する玉城節子さん=2009年5月、サイパンの「おきなわの塔」

 

 

対馬丸、救命艇4隻のみ きょう撃沈70年 8・22 琉球新報

写真 沈没した対馬丸の内部構造。船倉のつくり、2段ベッドの設置箇所などが記されている(県立図書館「大城立裕文庫」所蔵)

 

<おことわり>

  1944年8月21日に疎開学童や一般疎開の人たちを乗せ、那覇港を出港した「対馬丸」は翌22日午後10時12分、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分後の同23分ごろに沈没しました。

  この出来事についてはこれまで「対馬丸撃沈」「対馬丸沈没」「対馬丸遭難」などと呼ばれてきました。対馬丸は事故や座礁で遭難、沈没したのではなく、米軍の魚雷攻撃を受けて海の底に沈みました。こうした事実を明確に示すため、琉球新報は撃沈から70年を迎えるのを機に「対馬丸撃沈」と表記することにします。

 

 

 

対馬丸構造メモ発見 生存者、70年前の記憶たどる 8・22 琉球新報

 

写真 対馬丸の内部構造が記されたメモを見る生存者の上原清さん=21日、うるま市

 

写真 沈没当時、医務室にいた糸数裕子さん。「このような図面は初めて見た」と語った=21日、那覇市

 

 

 

 

 

 

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